秋月 後編
15/07/25
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◆大涼寺
古心寺の裏(臼井六郎の墓側)へ抜けると、大涼寺の門と石段が見えてきます。
もとは浄仙寺という寺だったのですが、初代藩主の黒田長興が母・大涼院殿の菩提寺として御廟を建て、大涼寺(正式には秋月山浄仙院大涼寺)と改めました。
大涼院殿は保科正直の娘・栄姫で、徳川家康の姪にあたります。家康の養女として黒田長政に嫁ぎ、忠之・長興・高政らを産みました。専用の菩提寺を作るほど、長興は母親を慕っていたということでしょうか。

門をくぐると、良い感じの石段があります。隣の古心寺と比べると、随分立派な造りになってますね。

本堂。こちらもかなり立派です。徳川家の血縁ということもあって、堂内の装飾には葵の御紋が使われています。

本堂横には閻魔大王も祭られています。

そして本堂裏の小高い坂を上っていくと、大涼院殿の墓という立て札が見えてきます。

大きな石を使った立派な墓です。真四角な墓も良いですけど、こちらも個性があって良いですね。古心寺もそうでしたが、かなりキレイに手入れされているのがわかります。

墓までの道の途中には小さな滝が流れており、小さいカエルの像が滝に打たれています。カワイイ。


◆腹切岩
腹 切 岩 ! かなり目を引くネーミングですが、エピソードもかなり壮絶です。
中央には「恵利暢堯殉節碑」が建っています。豊臣秀吉の九州征伐のとき、秋月家臣の恵利暢堯は命を受けて、秀吉軍の敵情視察を行いました。装備や人数の差に愕然とした暢堯は和睦を勧めるのですが、受け入れられず、これを諌めるためにここで自害したと言われています。忠誠心高すぎる…。この岩の上で妻子を刺し、自分も腹を切ったということで、その本気っぷりが窺えます。

当時の秋月家当主・秋月種実は、一度滅亡した秋月家の旧領を回復したどころか、その最盛期を築いた人物です。信長の野望などでも割と知略が高めだったり。しかしそれでも時代の流れが読めなかったのか、秀吉と敵対する道を選びました。和睦を勧めた暢堯については臆病者として扱ったので、それで面目を失った暢堯が自害したとも。
結局秀吉軍に敗れた種実は籠城するのですが、益富城の一夜城によって度肝を抜かれ、降伏することになります。この時、天下三肩衝の一つ楢柴肩衝を秀吉に献上し、秋月家は滅亡を免れました。

岩はかなり巨大で平たくなっています。この奥、三個の岩のうち一番北側の岩が腹切岩とされています。確かにここなら家族と一緒に自害できそうだ…なんて考えてしまうくらいなので、是非実物をご覧下さい。


◆鳴渡観音
初代藩主長興が上記の恵利暢堯のエピソードに感激し、暢堯の墓の上に建立したのが鳴門山音声寺(鳴門観音)です。この観音堂の前の小川から常に水の鳴る音がするので、鳴門と名付けたそうです。確かにキレイな小川が流れていて、次のキリシタン橋へと繋がっています。

観音堂の周りには小さいお地蔵さんがズラリと並んでいます。


◆キリシタン橋
秋月種実が秀吉の九州征伐によって日向高鍋へ移封された後、秋月は黒田如水(官兵衛)の弟・直之が治めていました。直之は如水と同様キリシタンだったので、秋月でもキリスト教が広まりました。その後キリスト教が禁止されたことで、キリスト教関連の施設はほとんど残っていません。秋月郷土館にはキリシタン灯篭が展示されています。

このキリシタン橋は、裏にマリア像が刻まれていたらしいのですが、現在は見ることはできません。頑張って覗いてみましたが、確かに見えませんでした…。しかし橋ってことは、マリア像を踏むってことになるんですけど、それは大丈夫だったんでしょうか?


◆秋月種時の墓
キリシタン橋を渡って少し進むと、秋月種時の墓があります。
ここで道なりにまっすぐ進んでしまうと山へ向かってしまうので注意!キリシタン橋を渡って、少し進んだところを左に折れると墓へ出ます。もちろん私は真っ直ぐ山へ向かい、途中で「あれ?これ完全に登山じゃね?」と思って引き返しました。
秋月種時は先述の種実から二代前の当主になります。鎌倉時代から続く秋月家歴代当主の中で、唯一秋月に存在する墓となります。
この息子(文種)の代で一度大友家によって滅ぼされ、更にその息子(種実)の代で復活したものの、日向高鍋へ移封となってしまいます。

完全に人気の無い林の中に、急に石段と墓がポツリと出てくるので、雰囲気はバッチリです。とにかく迷わないようにご注意を。もとはこの周辺が、秋月家の菩提寺である大龍寺だったといわれているそうです。
墓標の石は結構大きめ。なかなかこんな所まで来る人は少ないでしょうが、雰囲気と存在感は凄いのでオススメです。腹切岩と一緒にどうぞ。


◆日限地蔵院
日限地蔵院」は「武者返しの石垣」という立派な石垣の上に建っています。てっきり戦国時代のものかな?と思っていたら、まさかの明治時代に築かれたものだとか。

反対側から。

立派に作られた石段を上っていきます。

黒田家臣の後藤地門が、江戸参勤の際に腸チフスにかかり、江戸の松秀寺日限地蔵尊に祈願したところ治ったことから、分身を秋月に勧請しました。この時「治してくれたら秋月に勧請しますから〜」と言って祈願したのですが、病気が治ってからも地蔵を作る時間が無くて何もしなかったところ、病気が再発したので焦って地蔵を作ったとか。え、結構怖い。…下手なお祈りはできませんね。
日限地蔵は日数を限って祈願すると叶うという地蔵で、日本各所にあるそうです。

ここからは秋月の町が一望できます。のどかな風景ですね。紅葉の時期もきっと綺麗なんじゃないでしょうか。
日限地蔵院の次は「田中天満宮」だったのですが、地元の方々が集会的な感じで集まってたので、余所者がヌルッと入っていくわけにもいかず、スルーしました。


◆西福寺跡
その代わりと言っちゃアレですけど、西福寺跡です。昭和のときに廃寺になっており、今は墓地と駐車場になっています。
1876年、明治政府に不満を持つ士族が起こした秋月の乱では、ここがその本部となりました。


◆目鏡橋
1810年竣工の石橋。当時の家老・宮崎織部が長崎の石工を招き、周辺の花崗岩を用いて造りました。花崗岩製のものは全国的にも珍しいのだそうです。
江戸時代に出来たとは思えないくらい、綺麗な橋です。

ちなみに長崎の方の目鏡橋が、日本で最初の石橋になります。それまではどの橋も木造だったので、水害によってよく流されていました。秋月藩でも川の氾濫と橋の修復に悩まされていました。
この頃の秋月藩は長崎警護を命じられていたので、そこで長崎の目鏡橋を知り、秋月にも造ろうということになったようです。
長崎の方はメガネのようにアーチが2つ並んでいますが、秋月の方はアーチ1つのオーソドックスな形となっています。

橋は長崎橋と名付けられましたが、今は目鏡橋で定着してしまったということで…目鏡橋といえば長崎のものが有名ですし、長崎橋ってのも言いやすいとは思うんですけどねー。目鏡橋の方がわかりやすかったんでしょうか。
今回はここがゴールだったので、再び歩いて駐車場へと戻りました。

かなりの真夏日、というかガチの夏真っ盛りだったので、滝のような汗を流しながら秋月の町を徘徊してました。1人で見て回ってる人は私だけだったこともあって、ちょっと異様な人に見えてたかもしれません。古心寺〜目鏡橋までは自動販売機が見つからず、かなり身体が脱水状態でした。まぁ楽しすぎて気にならなかったんですけど、後から考えると結構危なかったかなと…。

秋月は桜と紅葉の名所くらいにしか考えてなかったので、ここまで見る場所が多いとは思っていませんでした。むしろ色々と見逃してる部分も多かったりするので、是非ともリベンジしたいところです。次行くとしたら桜か紅葉の時期でしょうかね、折角なので。
そうそう、「秋月郷土館」は私が行ったときは貸切状態だったのですが、先述の通り「島原陣図屏風」があったり、思ってた以上に鎧兜が展示してあったりと、意外に見応えがあります。しかも涼しい。オススメです。


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この旅行記は現地の案内板や資料館の解説文などを参考に作成しました。
2015/07/25:旅行した日
2015/10/28:アップロード日
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