秋月 前編
15/07/25
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今回は動画はありません!


春は桜、秋は紅葉で有名な観光地、秋月にやってきました。真夏に
平日の昼間、しかも猛暑日ということで、やはり観光客は少なめ。それでも結構な人数とすれ違いました。行ってみてわかったことですが、そこら中に駐車場があります。家の敷地に「駐車場300円」の看板を立てている地元の方々も多いようでした。きっと花見の時期は全部埋まってしまうんでしょうね。

秋月には、今も旧城下町時代の古い建造物があちこちに残されています。ゆっくり歩いて見て回り、風情ある町並みを楽しむのがベストでしょう。むしろ人が少ない時期の方がオススメかもしれません。いずれ春と秋にも行ってみたいですけどね。
中央の大型駐車場に車を停めて、杉の馬場の方へ歩きます。


◆杉の馬場
入り口に立つ「種痘の父 緒方春朔顕彰の碑」。
種痘は天然痘の予防接種のこと。古来から世界中で大きな被害を出してきた天然痘ですが、1798年にイギリス人のエドワード・ジェンナーがワクチンを開発してからは、被害が収まっていきました。緒方春朔はその6年も前に種痘を成功させたという、凄いお医者さんです。
ジェンナーは牛の病気である牛痘の膿を使いましたが、緒方春朔は人の天然痘患者のカサブタを鼻の穴から吹き入れて接種する方法を用いました。めっちゃクシャミとか出そうな方法ですけど、見事に成功。春朔はこの種痘法を広く紹介して、全国数百名の医者に普及させたそうです。

もう少し進んだところには「我国種痘発祥之地秋月」の石碑があります。こちらの石碑は2004年、上の石碑は2010年と、割と最近設置されたもの。かなりの偉業ですので、どんどん称えてほしいですね。
秋月城跡内にも緒方春朔を称える大きな石碑がありますが、そちらは難しい漢文で書かれています。

そしてこれが「杉の馬場」。駐車場から最奥の黒門まで真っ直ぐ続いています。両脇に並んでるのは桜の木です。
杉の馬場なのに桜かよ!?が秋月の第一印象です。元々は杉並木だったのですが、江戸中期に伐採されたとか。杉が生えてた頃は馬術の稽古などに使われたそうですが、割と道幅は狭く感じます。
1905年に日露戦争戦勝記念で桜が植えられ、それ以来桜の名所となったとのこと。残念ながら真夏なので緑一色ですが、花の季節に来たら桜より人間の数が多くなりそうですね。み、緑でも十分キレイだったし!!一応この時期でも、観光客の方はちらほらいらっしゃいました。

杉の馬場入り口には「野鳥橋」という橋がかかっていて、その下を野鳥川が流れています。この川が凄く綺麗で眩しくて、しかも石垣がいい感じなので、かなり印象的でした。こういった風景が町のあちらこちらにあるので、皆さん是非歩きましょう。

通りと城跡の石垣の間は、こんな感じの水堀になっています。ちなみに激浅です。


◆秋月城跡
しばらくは杉の馬場沿いの写真ですが、ここからは城跡の括りでまどめておきます。
水堀の途中に「瓦坂」という小さい坂があります。かつては秋月城の正門で、ここを上ったところに黒門(大手門)がありました。現在は黒門は奥の方に移築されています。
土砂の流れを防ぐため瓦を並べて敷き詰めているため、この名が付いたようです。パッと見は草で良くわかりません!
杉の馬場沿いにある秋月郷土館に「島原陣図屏風」が展示してあるのですが、そこにはこの瓦坂から出陣していく様子が描かれています。絵の方では結構大きく立派な橋のように描かれてますけど…。
島原陣図屏風」は歴史の教科書や図表によく載ってるので、結構有名かと思います。かなりリアルな籠城戦の様子が鮮明に描かれているので、見ているだけで楽しいです。ウォーリーを探せ的な、細かい上に動きが多い絵が好きな方はマジで必見。桜よりこっちを見に来ましょう!

続いては「長屋門」です。こちらは秋月藩時代に裏門として使われた門で、秋月城内で唯一その場に残っている建物です。
秋月城跡には復元天守などは無く、かなり趣きのある城跡なのですが、この門を抜けて中に入ると、秋月中学校があります。こんな風情たっぷりの史跡のど真ん中に通学できるとか、本気で羨ましい。ちなみに杉の馬場沿いに、普通に中学校の校門があります。気分は藩校ですね!

杉の馬場の1番奥にあるのが「黒門」です。
元々は戦国時代の秋月氏の居城「古処山城」の搦手門だったのですが、黒田長興の秋月藩入封に伴う秋月城改修の際に、秋月城の大手門として移築されました。更に明治時代、秋月城跡が垂裕神社として整備されたとき、神社の門として現在の場所へ移築。よく生き残ってくれました、という感じですね。
古処山城跡も近くにあるのですが、登山になってしまうため今回の旅では行ってません。登山的な意味で面白そうな史跡ですので、いずれ行ってみたいところ。

黒門を近くから。その名の通り黒いです。
周りの木はモミジなので、秋には美しい紅葉が見られるそうな。そんなわけで、秋月は春か秋がベストの季節のようです。
この門をくぐって真っ直ぐ進むと、秋月藩初代藩主黒田長興を祀る垂裕神社に続きます。

途中にある「湊川社(楠公社)」。
菊池武光と楠木正成が祭神の、小ぢんまりとした神社。当然ですが、本場の湊川神社と比べるとかなりひっそりした神社です。この辺りは南朝関連の史跡が多いのですが、まさか秋月城内で湊川の文字を見るとは思いませんでした。この日、菊池武光の銅像で有名な大刀洗公園にも行きました。写真は後ほど。
この湊川社の横に、先述の緒方春朔を称える石碑(漢文バージョン)が立っています。

秋月城之碑」。
秋月藩時代の陣屋形式の城は、明治時代の廃城令によって撤去されています。秋月郷土館に城の模型が展示されていますので、そちらで思いを馳せましょう。

石段を上って行くと「垂裕神社」の社殿があります。
祭神は秋月藩初代藩主の黒田長興。あの福岡藩祖黒田長政の三男で、1624年に福岡藩の支藩として秋月藩五万石が分知されました。支藩とはいえ、長興は将軍に拝謁し、他の大名と同格という特別待遇を受けたそうです。この時に城下町の町割りが行われ、現在の町並みまでほぼそのまま受け継がれています。
1859年、十代藩主黒田長元により、藩祖長興が垂裕大明神として勧請されることになりました。当初は後述の秋月八幡宮に祀られましたが、1864年に現在の場所へ、1873年には社殿が造営されました。石段は旧家臣ら士族がつくったので、士族坂というそうです。藩祖長興の愛されてる感じが伝わってきますね。

奥に進むと、「慰霊塔」が建っています。
明治時代以降の対外戦争、日清・日露・大東亜戦争で亡くなられた方々の慰霊塔です。神社敷地内にはあちこちに石碑が建っているので、ゆっくり見て回りたいところ。


◆秋月八幡宮
杉の馬場の突き当たりから更に奥に進むと、秋月八幡宮があります。結構奥の方にひっそり建っている上、観光パンフレットの散策コースからも何故か除かれているので、見落としがちかもしれません。しかし歴史ある秋月の中でも一際歴史の深い建物なので、是非ともコースに加えましょう!かなり綺麗に整備されてますので、神社マニアの方にもオススメです。

940年、瀬戸内海の海賊として有名な藤原純友が反乱を起こした際、鎮圧のために朝廷が派遣した追捕使の内の1人に、大蔵春実という貴族がいます。神功皇后に縁のあるこの場所で戦勝祈願をしたところ、鎮圧に成功したので、神社を建てたのが始まりとのこと。
この大蔵春実の子孫が秋月氏となり、鎌倉時代にこの社殿を建てたとか。その後は戦国時代まで秋月家が、江戸時代は黒田家が改修を続け、長年に渡って守られてきたそうです。まさに秋月の歴史にベッタリな神社というわけですね。
黒門側は神社の裏側にあたり、写真のように社殿の裏に出てきます。正式な参道は反対側で、かなり急な石段になっています。

周囲は大きな樹林に囲まれています。森林浴とかできそうなレベルの自然に囲まれているので、厳かな雰囲気がより一層引き立ちます。黒門周辺と比べると人も少ないので、かなり静か。神社マニア必見。
右側に写ってる御神木はかなり巨大で、こちらも雰囲気あります。

鳥居越しの本殿。鳥居も本殿も立派でした。

本殿を近くから。800年以上前の建物と考えると凄いですよね。
神社の敷地はかなり広く、秋月氏の時代には家老の坂田氏が居城として使っていたようです。城の遺構らしきものは神社内にはほとんど残されていませんが、いかにも山城に向いてそうな場所です。

こちらも近代戦争の慰霊塔。先ほどの垂裕神社のものとは違い、忠魂碑となっています。後ろの木が良い感じですね。緑も綺麗でしたけど、紅葉の時期にはまた違った景色になりそうです。
秋月八幡宮から、再び杉の馬場の方へ戻ります。


杉の馬場の途中から南側へ折れます。
田んぼや小川、石段の跡など、のどかで味のある町並みの中を歩いていくと、「久野邸」という武家屋敷に着きます。観光地とはいえ普通に人が暮らしてるので、あまりジロジロ見て回ると何だか申し訳ないような感じもしてきたり。久野邸は観光用の武家屋敷ですので、しっかり中まで見ることが出来ます。

その横には「戸原継明誕生地」の石碑。この周辺にはこういった石碑や案内板があちこちに建っています。跡から気付きましたが、結構見逃してる物も多くありました。また別の季節にリベンジしたいところ。

近くの田んぼ脇には「日本最後の仇討 臼井六郎生誕地」の立て札があります。
幕末、日本中が開国か攘夷かで分かれていた時、秋月藩内でもその2派で意見が対立していました。臼井六郎の父・亘理は開国派だったために、攘夷派の干城隊によって殺されてしまいます。
臼井六郎が仇討を果たしたのは、それから13年後の1880年。武士の時代なら美化されたであろう仇討でしたが、明治政府の仇討禁止令によって有罪判決を受けました。
日本最後の仇討というインパクトの強さもあってか、ドラマや小説の題材にもなっていますね。ラストサムライ的なかっこよさが、秋月にもマッチしていると思います。

そして再び、杉の馬場入り口の駐車場の方へ戻りました。

ちなみに観光パンフレットでは、杉の馬場へ戻らず、更に南下して目鏡端を経由するのがオススメのコースとされています。皆さんには是非、観光パンフレットのコースに従うことをオススメします
至るところに親切な案内板があるのですが、基本的にパンフレットの散策ルートに沿う形で立っています。私は逆走するルートになった結果、案内板を見落として苦労しました。ただの方向音痴かもしれませんけどね!


◆古心寺
そんなわけで、ウロチョロさまよいつつ古心寺に着きました。
あれ?ここで合ってんの?という感じの門をくぐって中へ。ここは裏側から入ってきた方がわかりやすいというトラップになっていますが、逆走しているので仕方ありません。
寺の建物自体は小ぶりですが、秋月藩黒田家の菩提寺です。というのも廃藩置県によって黒田家の保護を離れた後、経営難によって規模を縮小したためだとか。当時の本堂や山門などは別の寺に移築されてしまい、現在の本堂は昭和に入ってから改築されたもの。

奥へ入っていくと、秋月藩黒田家の墓所があります。ちょっとわかりづらいので、しっかり奥まで進みましょう。
ここからスーパー墓フォルダタイム!

まずは秋月藩初代藩主の黒田長興。
もともとは祖父の黒田官兵衛孝高の一字をもらって孝政と名乗っていましたが、後に長興へ改名しました。新しい藩を興したってことで、この名前にしたのでしょうか。カッコイイ。
現在まで続く城下町の整備、新田開発や治水などを行って秋月藩の基礎を作りあげ、現在は垂裕神社に祭られています。

そして長興の父、黒田長政の墓。この古心寺は、長興が父の長政の菩提を弔うために建立しました。
長興は長政の遺言で秋月藩主となったのですが、長政の跡を継いだ兄・忠之はそれを良く思わず、秋月藩を家臣として扱おうとしました。長興はそれを出し抜く形で江戸に行き、幕府のお墨付きとなる朱印状を手に入れたので、この二人はかなり仲が悪かったようです。
父の長政は、暗愚な忠之よりも聡明な長興を可愛がり、本家の跡継ぎにしようとしていたという説も。実際に忠之の方ではお家騒動が起きたので、長政の不安が的中ってことになるんでしょうか。むしろ長政が長興を贔屓しなければ、お家騒動にはならなかったのかも…?

長興の息子、二代藩主長重の墓です。
更に三代藩主長軌⇒四代藩主長貞⇒五代藩主長邦⇒六代藩主長恵と続きます。

右奥 六代長恵
手前 八代長舒
長恵は19歳という若さで亡くなり、養子の長堅が七代藩主となります。しかし長堅は更に若い15歳で亡くなってしまい、秋月藩は断絶の危機に。家老たちは日向高鍋藩の秋月家から長舒を藩主として迎えました。
この秋月家は先述の秋月八幡宮を建てた大蔵春実の子孫、長い間秋月を拠点としていた、あの秋月家です。戦国時代の終わり、秋月家は秀吉の九州征伐の際に降伏し、日向高鍋に移封されていました。それから約200年ぶりに、秋月家が秋月の地に舞い戻ったことになるわけです。何とも運命的な話ですね!
長舒の祖母が四代藩主長貞の娘だったので、一応血は繋がっています。

ズラリと並んだ墓、壮観です。黒田家歴代藩主とその正室の墓が勢ぞろいしています。

黒田家の墓所を出て反対側へ進むと、臼井六郎とその両親の墓があります。両親の仇討を果たして終身刑となった六郎でしたが、大日本帝国憲法発布の恩赦によって釈放されています。その後は九州に戻って結婚し、60歳で病死しました。


前編はここまで!続きは後編へと続きます。
⇒後編へ続く
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