◆ゴリガン概論
ゴリガンがいつからこの世に存在するのか。これまで多くの歴史家たちを悩ませてきた、永遠の謎である。卑弥呼の時代に大陸から渡ってきた、空海が木を削って作ったなど、その出生に関してはいくつもの説が唱えられてきた。中には、国生みの際にイザナギとイザナミが用いた天沼矛こそゴリガンだという説もあるほどだ。しかし、そのいずれの説にも明確な裏付けとなる史料が存在しない。

ゴリガンらしきものが初めて史料に登場するのは、10世紀の初め頃、平将門の乱においてである。将門の乱についても明らかになっていない部分が多く、ゴリガンがこの乱においてどのような働きをしたかは定かではない。しかし、現在まで伝わる将門の伝説が、ゴリガンが存在したことを浮き彫りにしている。すなわち、「首」の伝説である。
平将門は頭を矢で射抜かれて絶命し、その首は平安京で晒し首にされたと伝えられている。これは歴史上初めての晒し首であり、これ以後、獄門という刑罰が定着していくきっかけとなった。そして都で晒された将門の首は、己の五体を求めて東へ飛んでいったという。首が独りでに飛ぶという奇妙な伝説だが、ここで誰かの顔が思い浮かばないだろうか?首だけで飛び回るように見える異様な杖。そう、ゴリガンである。
▲クリックで拡大。東京都千代田区の将門塚。
ゴリガンが将門の影武者を務め、将門の代わりに晒し首にされたのだ。杖であるゴリガンにとって、矢が刺さろうが何の問題もなく、首を刎ねられても元々首しかないのである。晒し首という名目でただ吊り下げられた後、何事もなかったかのように東へと飛んでいったのではなかろうか。将門には7人の影武者がいたという伝説も残っている。この中の1人くらいが魔法の杖だったとしても、何の違和感も無いだろう。
▲宇宙空間を飛行するゴリガン。
伝説によると、将門の首は途中で力尽きて落下し、埋葬されたという。ゴリガンも飛行するとかなりの魔力を消費するようだったので、恐らく魔力切れで落下したのであろう。そして生首と勘違いされ、地中に埋められてしまったのだ。その後、戦国時代には関東の武将たちが、将門の首塚に武運を祈願するようになる。後北条家の祖、北条早雲もそのうちの1人である。
早雲とゴリガンがどのように出会ったかは定かでない。しかし早雲が関東で急速に勢力を広げた陰には、ゴリガンの力があったことは間違いないだろう。早雲が平氏の流れを汲む伊勢氏の出自とされていることも、なかなか興味深い。
早雲死後も、氏綱・氏康の従者として画期的な政策を次々と進言し、北条家の勢力を確固たるものにした。また、戦場にもよく姿をみせていたというが、口だけは勇ましいものの決して前へ出ようとせず、味方の武将たちからも顰蹙を買っていたようである。日ごろから主君には慇懃なものの、それ以外の全ての者には常に上から目線のため、非常に嫌われていたと伝えられている。
▲クリックで拡大。ゴリガンを振りあげる北条早雲の銅像。
1559年、ゴリガンは突如北条家を出奔したという。この年、氏康が息子の氏政に家督を譲っていることから、ゴリガンが氏政の能力に見切りをつけたという説や、他の家臣たちとの不仲が決定的になったという説などが有力である。ともかく、ゴリガンは各地を転々としながら、正義の心で天下泰平をもたらす武将を探し回ることになった。そして翌年、ついにゴリガンは目当ての武将と運命の出会いをすることになる。
1560年、ゴリガンは今川義元に面会を申し込んだが、断られている。義元としては、同盟国である北条家を出奔したゴリガンを受け入れることで、北条家との関係が悪化することを恐れたのであろう。しかしゴリガンはこれを不服に思い、今川家がこれから攻め込まんとしていた織田家へと向かうことにした。
太田牛一の『信長公記』には、信長が義元に奇襲をかける様子が以下のように記されている。

  軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面目、末代の高名たるべし。只励むべしと、御諚のところに、前田又左衛門、毛利河内、毛利十郎、木下雅楽助、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人、右の衆、頸(ゴリガン)を取り持ち参られ候。右の趣、一々仰せ聞かせられ、山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓懸の到下の松の本に、二かい三かゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、ごりがんの神軍かと申し候なり。
▲クリックで拡大。信長塀の説明文。
家臣が信長の前にゴリガンを持ってきたところ、急に豪雨が降りだし、織田軍を助けたという。言うまでもなく、ゴリガンの魔力によるものである。これをきっかけに、ゴリガンは信長の従者として縦横無尽の活躍を見せる。また、弁が立つ人頭杖としてどこに行っても気に入られるため、外交でも大きな働きを見せた。
そして1582年、本能寺の変の際にゴリガンが何をしていたかは記録に残されていないが、恐らく外交のために遠方へ出向していたのだろう。慌てて戻ってきたときには、光秀と秀吉の決着がついた頃であった。敗れた光秀は逃げる途中、農民が突き出したゴリガンが刺さって絶命したという。それでもゴリガンの怒りはおさまらなかったのか、高野山にある光秀の墓石にはゴリガンの怒りの表情が浮かび上がるという。
▲クリックで拡大。高野山の光秀墓。
その後、秀吉の従者になることを嫌ったゴリガンは、しばらく歴史の表舞台から姿を消すことになる。とはいえ、やはりその奇抜な容姿のため、目撃されたという情報が絶えることはない。歴史を動かす大事件の裏には、必ずゴリガンが関与していると考えて、まず間違いないだろう。例えば、板垣退助は何故か杖を2本持ち歩くということで有名だった。板垣が暴漢に胸を刺されたとき、重症の板垣に代わって「板垣死すとも自由は死せず」の名言を叫んだのは、2本目の杖、即ちゴリガンである。
▲クリックで拡大。2本の杖と板垣退助像。
戦後、日本が高度経済成長を遂げると、ゴリガンが姿を見せることは少なくなっていった。日本人には見切りをつけて海外へ渡ったとか、使命を諦めて宇宙へ帰ったなどと言われており、近年はゴリガンが都市伝説のように語られることも多い。喋る人面杖が変なやつに絡まれてるところを助けたら不思議なカードを貰ったとか、杖に付き纏われるようになって発狂してしまったとか、都市伝説の内容も様々である。最近では某企業で実権を握り、世界を支配しようとしていると噂されているが、これも都市伝説の1つに過ぎないのであろうか。
▲クリックで拡大。パレードに姿を見せたゴリガン。
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